2017年12月28日木曜日

1、2月集会の講演

2018年1、2月に東京と札幌で開かれる口頭弁論後の報告集会の講師は、東京が望月衣塑子さん、札幌が池田恵理子さんです。演題と日時は次の通りです。いずれも、講演の前に、弁護団と植村隆さんからの報告があります。
■望月衣塑子さん(東京新聞社会部記者)
「記者への攻撃と報道の自由」
1月31日(水)16:00~17:30、参議院議員会館101会議室(予定)
■池田恵理子さん(女たちの戦争と平和資料館館長、元NHKディレクター)
「慰安婦」問題はなぜタブーにされたのか ~メディアと教育への政治介入の果てに
2月16日(金)18:30~20:00、札幌エルプラザ4階大研修室



2017年12月10日日曜日

原寿雄さんを悼んで

ジャーナリストの原寿雄さんが、11月30日に亡くなりました。
原寿雄さんは、高い識見をそなえ豊かな経験をもつジャーナリストとして、「負けるな北星!の会」の呼びかけ人に名を連ね、また、植村裁判が始まってからは東京地裁に意見書を提出し、植村さんと私たちを支えてくれました。
これまでのご支援に感謝を捧げ、ご冥福をお祈りします。


追悼 「良心を発動」の呼びかけ忘れずに伊藤誠一

弁護士、植村訴訟札幌弁護団共同代表

慎んで哀悼の気持ちを表明します。
原さん(お話を伺ったことなく、面識もございませんが、親愛の情からこう呼ばせていただきます)には、私が青年の頃より、日本社会の動きとジャーナリズムの実際が問われる場面で必ず、そのご発言を参照させていただいておりました。
戦中、戦後を俯瞰する長い時間軸にこの2つを定位させて関係を論じられる、あるべきジャーナリズム、ジャーナリストへの提言は、私のささやかな知の中に取り込ませていただきました。
2014年8月の朝日新聞による「慰安婦報道検証」とその周辺についての発言、「『良心的であればいい』ということで終わらず具体的な言動で『良心を発動し始めよう』と呼びかけたい」、「一人で行動するのが難しかったら、2、3人で集まるなどしてとにかく何らかの形で良心を発動させていく」(月刊「ジャーナリズム」2015年3月号)は、志あるジャーナリストに対する呼びかけですが、「社会正義を実現する」とその使命を法に規定された弁護士の現代社会との向き合い方について、強く響きます。
還暦を遠く過ぎた今日も座右の銘のごときを持てないできていますが、原さんのこの言葉は忘れないでいきたいと思っています。

追悼 勇気づけ支えてくれた大先輩植村隆

元朝日新聞記者、植村裁判原告、韓国カトリック大学客員教授

ジャーナリストの大先輩、原寿雄さんの訃報を聞き、大きなショックを受けています。
「もうお会いできないか」と思うと、悲しくてなりません。
原寿雄さんのことを知ったのは、いまから40年近く前、早大生時代でした。早稲田の古本屋で、「デスク日記」という本を見つけ、夢中になって読んだ記憶があります。原さんが、小和田次郎というペンネームで書いたものです。
デスクとは、新聞社で、記者の書いた原稿をチェックして、出稿する担当者のことを言います。そのデスク体験から、報道について洞察された記録でした。この本は新聞記者を目指す私にとって、とても参考になりました。そして、ますます新聞記者になりたいと思ったものです。
その後、朝日新聞の記者となり、原さんの他の著書も読ませていただきました。
お会いする機会は長らくなかったのですが、新聞記者の大先輩として、教えられることが多く、尊敬しておりました。
その原さんにお会いし、話をすることができたのは、植村バッシングがきっかけでした。1991年の慰安婦問題の記事をめぐって、2014年1月末発行の「週刊文春」で、「捏造記者」とレッテル貼りされ、激しいバッシングを受けていた私に、救いの手を差し伸べてくれたのが、原さんでした。
原さんと筆者(2014年11月)
その年の8月5日、朝日新聞は私の記事について、「事実のねじ曲げない」と「捏造」を否定したのですが、バッシングは収まりませんでした。朝日新聞の先輩である藤森研・専修大学教授が、とても心配し、原さんらジャーナリズム界の大先輩たち数人を前に事情説明をする機会をつくってくれました。そして、9月、私は東京で原さんたちに、資料を見せて、「捏造記者」でないことを詳しく、説明しました。原さんも理解してくれ、応援をしてくれることになりました。
原さんは、「自分の会社の記者が、『捏造記者』とされているのに、何で朝日は動かないのか」という趣旨の話を私にしてくれました。その怒りが、私の心に響きました。
その年の11月、東京でジャーナリズム関係者を前に報告する機会がありました。メディア総研の例会でした。原さんは一番前の席に座っておられました。その姿が、どんなに、私を勇気づけてくれたことでしょうか。この場が、東京での反転攻勢の大きな契機になりました。
ゆがんだ誹謗中傷の記事がどれほど多く書かれても、原さんが私を理解し、私の側に立っていてくれていることが、私にとって、大きな心の支えでした。そして、私を支援してくれるジャーナリストの仲間たちが、どんどん増えていきました。
原さん、ありがとうございました。
ご冥福を祈っております。
そして、私は日本のジャーナリズムを守るため、闘い続けます。

マケルナ会メッセージと植村裁判意見書

■原さんは、2014年10月6日に東京であった「マケルナ会」発足記者会見に、呼びかけ人のひとりとしてメッセージを寄せました。その全文です。

植村さんの勤務先である北星学園大学への脅迫に加え、娘さんに対するひどい脅迫めいたバッシングは、単なるヘイトスピーチではなく、明らかな犯罪だ。こういうことが見過ごされるようになったら、日本社会の自由な言論が封じられ、ものが言えなくなる。これは、大学の自治だけの問題ではなく、日本社会の大問題である。

■2015年12月には、東京地裁に植村裁判についての陳述書を提出しました。A4判2ページの簡潔な意見書です。その一部を掲載します。

陳述書 2015年12月11日
1 私の経歴(略)
2 ジャーナリズムにおける「捏造」の意味
ジャーナリズムの世界では、「誤報」「盗用」「捏造」がよく問題になります。「誤報」はある程度やむを得ない面がありますが、「盗用」と「誤報」は犯罪であり、真実追及を掲げるジャーナリズムの世界では許されないものです。

(1)「誤報」について(略)

(2)「盗用」と「捏造」について
「盗用」と「捏造」は、ジャーナリズムとしての「犯罪」だと思っています。「盗用」は著作権の問題がありますから、刑事告訴されてもやむを得ない。
「捏造」も(刑事罰はないとしても)、ジャーナリストとしては「犯罪」視すべきものです。「捏造」は「誤報」と違い、意図的に行われるものです。「捏造」の「捏」は捏ねる(こねる)という意味です。粘土をこねて何かを作りだすというのが「捏造」の意味なのです。
捏造記事といって、まず思い出すのは、伊藤律会見捏造事件(1950年9月27日付け朝日新聞夕刊)です。朝日新聞としては恥ずべき歴史的不祥事です。
消息を絶った日航機が三原山に衝突した事件で、事実は乗客30人全員が犠牲となったのに、長崎民友新聞は、「漂流して全員救助」の誤情報を受けて、「危うく助かった大辻伺郎」の見出しをつけて、乗客だった漫談家の話として「漫談の材料が増えたよ」という談話を掲載したということもあります(1952年4月10日付け長崎民友新聞)。
共同通信社でも、セイロン(現スリランカ)で失敗に終わった皆既日食観測を成功と報道してしまった例がありました。(1955年6月20日)。これは成功の場合と失敗の場合の予定稿を用意していたのですが、確認がとれず、英国観測隊が成功したとのセイロン放送に依拠して、“英国隊から僅か12キロの距離にいる日本観測隊も成功したはずだ”という在京の本社デスクの判断で記事を出してしまったというものです。記事の中には「喜びの瞬間、観測隊長は胸から手帳が落ちたが拾おうとしない」云々と、あたかも見てきて記事を書いたような脚色があるので、これは「捏造の一種」でしょう。捏造は意図的である点で悪質です。
「捏造」を行った記者は、読者、視聴者への背信として、懲戒処分(場合により懲戒解雇)を免れません。それほど「捏造」の罪は重いのです。

3 植村さんの問題について
「捏造」は犯罪であり、「捏造記者」と言われることは、ジャーナリストとしての「全人格の否定」です。最大最高級の侮蔑、と言ってもいいでしょう。
ジャーナリズムの使命は、真実の報道ということです。「捏造」は意図的に真実でないことを報道するのですから、ジャーナリズムの使命を真正面から否定することです。
「捏造記者と呼ばれるより三流記者とか御用記者のほうが、名誉毀損度は高い」と言う人もいるそうですが、そうではありません。「三流」とか「御用」というのは評価の問題です。「捏造記者」というのは、嘘を書くのが平気な人ということで、ジャーナリズムの世界では、最大の侮蔑的な言葉です。

4 まとめ
植村隆さんが、「捏造」記者と報道されたのは、新聞記者として致命的な名誉毀損だと考えます。裁判所はこのことをご理解いただき、公正な裁判をして頂きますようお願いいたします。
以上 

■原寿雄さんの訃報(12月8日、共同電)

「デスク日記」や「ジャーナリズムの思想」の著者で、報道の在り方を問い続けた元共同通信社編集主幹のジャーナリスト、原寿雄(はら・としお)氏が11月30日午後6時5分、胸部大動脈瘤破裂のため神奈川県藤沢市の病院で死去した。92歳。神奈川県出身。葬儀・告別式は親族のみで行った。喪主は妻侃子(よしこ)さん。
東大を卒業。1949年に社団法人共同通信社に入り、社会部次長、バンコク支局長、外信部長、編集局長、専務理事、株式会社共同通信社社長を歴任。新聞労連副委員長や神奈川県公文書公開審査会会長、民放とNHKでつくる「放送と青少年に関する委員会」委員長なども務めた。