2018年5月2日水曜日

JCJ機関紙に寄稿

この記事は、植村隆さんが日本ジャーナリスト会議(JCJ)の機関紙「ジャーナリスト」第721号(4月25日発行)に寄稿したものです。全文を転載します

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原告・植村さんが寄稿

櫻井氏が間違い認め、訂正約束 

大詰め迎える慰安婦記事訴訟

歴史修正主義との闘い 

ジャーナリズムのあり方が問われる

  
歴史修正主義勢力のいわれない「捏造」記者との非難、個人攻撃と闘う元朝日新聞記者植村隆氏の札幌訴訟は、本人尋問で櫻井氏の主張の根本が「捏造」だったことが明らかとなった。この対決について植村氏本人から寄稿してもらった。





札幌判決は秋にも

元日本軍慰安婦の証言を伝えた私の記事を「捏造」とレッテル貼りした東京基督教大学教授(当時)の西岡力氏やジャーナリストの櫻井よしこ氏を名誉毀損で訴えた二つの裁判は4年目を迎え、大詰めを迎えている。3月23日には札幌地裁で、私と櫻井氏に対する本人尋問が行われた。櫻井氏が自らの記事の一部が間違っていたことを認め、訂正を約束した。提訴以来、私が指摘していた問題点で、大きな進展だった。7月6日に結審し、秋には判決が下される見通しだ。東京訴訟も今後尋問が予定されている。

私は、櫻井氏が14年に書いた六つの記事を名誉毀損の対象として訴えている。その一つがワック発行の雑誌「WiLL」14年4月号の記事だ。陳述書で、その問題点を指摘した。
《櫻井氏は、「過去、現在、未来にわたって日本国と日本人の名誉を著しく傷つける彼らの宣伝はしかし、日本人による『従軍慰安婦』捏造記事がそもそもの出発点となっている。日本を怨み、憎んでいるかのような、日本人によるその捏造記事とはどんなものだったのか」と書いた上で、私の91年8月11日の記事を取り上げています。

 「(金学順さんが日本政府を訴えた訴訟の)訴状には、14歳のとき、継父によって40円で売られたこと、3年後、17歳のとき、再び継父によって北支の鉄壁鎮というところに連れて行かれて慰安婦にさせられた経緯などが書かれている。植村氏は、彼女が継父によって人身売買されたという重要な点を報じなかっただけでなく、慰安婦とは何の関係もない『女子挺身隊』と結びつけて報じた」
 しかし、私の記事の約4カ月後に金学順さんが日本政府を訴えた訴訟の訴状には「継父によって40円で売られた」とか、「再び継父によって…慰安婦にさせられた」という記述はありません。訴状には金学順さんが「人身売買の犠牲者である」と断定するような記述はないのです。「訴状にない」ことを、あたかも「訴状にある」かのように書いて、私の記事を攻撃しているのです。それは金学順さんの尊厳を冒涜し、名誉を毀損することにもつながると考えます》

主張の前提が崩壊

この「継父によって40円で売られた」などという記述が本人尋問の大きな争点のひとつだった。櫻井氏は主尋問で、この間違いを認め、「訂正します」と約束した。櫻井氏はこのほかに、少なくとも産経新聞や「正論」、二つのテレビ番組で計4回、同種の間違いを繰り返していた。私の代理人である川上有弁護士の反対尋問でそれらを指摘された櫻井氏は、その都度、過ちを認めた。櫻井氏によると、出典は訴状ではなく、ジャーナリストの臼杵敬子氏が月刊「宝石」92年2月号に発表した記事だという。そこには金氏の証言として「平壌にあった妓生専門学校の経営者に40円で売られ、養女として踊り、楽器などを徹底的に仕込まれた」とある。妓生とは、朝鮮の芸妓であり、日本軍相手の慰安婦とは違う。臼杵氏の記事では、金氏が中国で日本軍によって強制的に慰安婦にされたとう内容の記述がある。つまり、櫻井氏は都合のいい部分だけを引用して、結論を無視していたのだ。

櫻井氏は、「捏造」と表現し、その前提事実として「金学順氏は親に売られて慰安婦になった」と主張している。しかし、その前提が大きく崩れたと言える。
また、訴訟対象の六つの記事の別の一つでは、こうも書いていた。「(金氏は)一度も、自分は挺身隊だったとは語っていない。(中略)ならば捏造と考えるのは当然」(「週刊ダイヤモンド」14年10月18日号)。しかし、この主張も、反対尋問で崩された。川上弁護士が金氏の記者会見を報じた韓国各紙の記事を見せながら、金氏が自らを「挺身隊」と語っていたことを示したからだ。

捏造は言い掛かり

札幌訴訟では前回の期日(2月16日)に、元北海道新聞ソウル支局長の喜多義憲氏が重要な証言をした。喜多氏は、金氏と単独会見をし、「戦前、女子挺身隊の美名の下に従軍慰安婦として戦地で日本軍将兵たちに凌辱された」という書き出しの記事を書いた。当時、喜多氏は私と面識もなく、私の記事も見ていなかったという。喜多氏は法廷で、私の記事に対する櫻井氏の主張について「言い掛かり」との認識を示し、こう語った。「植村さんと僕はほとんど同じ時期に同じような記事を書いておりました。それで、片方は捏造したと言われ、私は捏造記者と非難する人から見れば不問に付されているような、そういう気持ちで、やっぱりそういう状況を見れば、違うよというのが人間であり、ジャーナリストであるという思いが強くいたしました」 

私は本人尋問の際、背広の内ポケットに一枚の紙を入れていた。その紙には、金学順氏が自分の裁判で東京地裁に提出した陳述書にあった次の言葉を書き写していた。
「私は日本軍により連行され、『慰安婦』にされ人生そのものを奪われたのです」。この金氏の無念の思いを我々は決して忘れてはならないと思う。私は主尋問で、記事を書いた当時の思いをこう述べた。「日本のアジア侵略が生み出した悲劇を直視しなければならないと思った」。

日本新聞労働組合連合(新聞労連)の小林基秀委員長は東京から傍聴に駆けつけ、機関紙に傍聴記を書いた。「『植村氏に捏造ない』労連支援」という見出しの関連記事も添えていた。「捏造記事とは『意図的に』嘘を書くことだ。植村氏の記事にそれに該当する要素は見当たらない。新聞労連は、植村氏の『私は捏造記者ではない』との主張を支持し、今後も支援していく方針だ」とあった。この記事にも、とても勇気づけられた。

私の裁判は、櫻井氏や西岡氏の言説の誤りを明らかにするだけでなく、ジャーナリズムのあり方を問う裁判であると思う。そして、慰安婦問題という歴史的な事実をなかったことにしようとする歴史修正主義との闘いでもある、と考えている。(元朝日新聞記者、韓国カトリック大学客員教授)

植村裁判の経緯
私は大阪社会部時代の91年8月11日、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)がソウルに住む元日本軍慰安婦の聞き取り作業を始めたという記事を書いた。「日中戦争や第二次大戦の際、『女子挺身隊』の名で戦場に連行され」という書き出しだった。韓国では当時、従軍慰安婦のことを「挺身隊」と呼んでいた。この女性も挺対協にそう語っていた。3日後、金学順と実名で記者会見した。同年12月6日には、日本政府に戦後補償を求め裁判を起こした。私は弁護団の事前聞き取りに同行し、その内容を記事に書いた。

14年に東京基督教大学教授(当時)の西岡力氏や櫻井よしこ氏が、私の記事を「捏造」と非難。激しいバッシングが始まり、教授就任が決まっていた神戸松蔭女子学院大学に抗議が殺到、転職の道を断たれた。非常勤講師だった北星学園大学にも攻撃が続いた。娘を殺すとの脅迫もあった。

私は15年1月に西岡氏と週刊文春発行元の文藝春秋社を東京地裁に、同年2月、櫻井よしこ氏と同氏の記事掲載雑誌発行元のワック、新潮社、ダイヤモンド社を名誉毀損で札幌地裁に提訴した。さらに17年9月、櫻井氏の記事を載せた産経新聞に訂正を求める調停を東京簡裁に申し立てた。

 (転載了)

※おことわり  「主張の前提が崩壊」の段落で、<月刊「宝石」92年4月号>は<月刊「宝石」92年2月号>と訂正しました。 update2018.5.4 pm5:30